泣きたくなったあなたへ
ー泣きたくなった時に自分に言い聞かせる言葉ー
プロローグ
胸を切り裂かれたように、時々、言葉にもならない苦しさが私を襲う。私の周辺の酸素を誰かが悪戯に掻っ攫って行ってしまったのだろうかと思うくらい苦しくてたまらない。
疲れた、もうほとほと疲れてしまった。そういう時は音楽もケーキも役に立たない。泣きたいときは大抵ひとりぼっち。そして大抵、深夜。もうどうしようもない。ベッドに沈み込み、意識を失うのを待つばかりだ。明日になればなんともなかったような顔をしてご飯を食べ、仕事をして、電車に揺られて帰ってくるのだろう。大人と呼ばれるようになったって大声をあげて弱音を吐いて、汚い言葉を撒き散らして、干からびるほど泣きたい時があるのに、なんともないフリをするのがうまくなってしまったおかげで、泣き方も、誰かに支えてもらう方法も忘れてしまった。こんなにも惨めで辛い夜を一人でやり過ごせるようになるのが大人だというのなら、ずっと子どもでいたかったと、そんな叶わない我儘を思いながら静かに目を閉じる。
今回の読書録は「泣きたくなったあなたへ」から考える「泣きたくなった時に自分に言い聞かせる言葉」
本書の中で、泣きたくなった時のアドバイスの一つとして「自分に言い聞かせる言葉を持っておくこと」を教わった。母が小さな私を抱きしめて「大丈夫、大丈夫よ」と背中をさすってくれたように、自分が自分を支えるための言葉を持っていれば、苦しさに襲われることに怯えずひとりぼっちの夜も穏やかに過ごせるようになるかもしれない。
泣きたくなった時に自分に言い聞かせる言葉
私はまず、自分がよく抱える悩みを書き出してみた。そしてその悩みに対して自分自身が親友となって自分に声をかけるならなんと言うだろうかというのを意識して考えた。以下は私個人に向けて作った言葉だが、もし誰かの参考になっていたら幸いだ。
- うまく走れなくても大丈夫、ゆっくり歩けばいいから
- 普通で大丈夫、特別じゃなくても私はすでに満たされているから
- 普通じゃなくても大丈夫、それは素敵な個性だから
- 理解されなくても大丈夫、私が感じたことは本物だから
- 裏切られても大丈夫、私は十分に愛情を注ぎきったから
- 生きているだけで大丈夫、それ以上必要なことは何もないから
うまく走れなくても大丈夫、ゆっくり歩けばいいから
みんなと同じようにうまく生きれなくて悲しくなる時がある。やり方を真似てみようと試行錯誤はするのだけど、背伸びするのに疲れてしまって立ち止まってしまうようなことを何度も繰り返してきた。前を向けば、横並びだったはずの友人たちが随分と先の方を綺麗に走っている。置いてきぼりにされたようで寂しい、そして悔しい。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「うまく走れなくても大丈夫、ゆっくり歩けばいいから」
彼女たちのようにうまく走れなくても大丈夫。そもそも生き方に上手いも下手も正解も不正解もない。無理して真似るのは自分らしさを否定しているのと同じことでそれは最も悲しいことだ。私は私のやり方で、私のスピードで、前に進めば大丈夫。
普通で大丈夫、特別じゃなくても私はすでに満たされているから
何かに秀でていなければいけないような強迫観念に襲われることがある。私たちには必ず何か一つ得意なことがある、という励ましにすら焦りを感じてしまう。だってそれが見つけられないのだ。特別綺麗な美人だとか、特別仕事ができるとか、誰かに特別愛されているとか、とにかく誰かよりも優越した何かが欲しい。そうじゃないと「私」という価値がない気がするから。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「普通で大丈夫、特別じゃなくても私はすでに満たされているから」
私が普通であることが受け入れられないのは、何もない空っぽの人だと思われたくないからだ。でも「普通」と「何もないこと」は同意ではない。私はすでに多くの人に愛され、働ける環境が与えられ、お給料をもらって生きている。他者から見れば派手さはないしキラキラしていないように見えるかもしれないが、小さな幸せで満たされている。決して空っぽじゃない。
普通じゃなくても大丈夫、それは素敵な個性だから
変わってるね。と言われると、私たちその他大勢とは違いますね。とシャッターを閉められて隔絶されたような気持ちになる。それがとても寂しくて、私もみんなと同じであろうと自分を押さえ込んでしまうことがある。思った言葉を言わないようにしたり、みんなの好みに合わせて選んだり、それで徐々に馴染んではいけるのだが、寂しさは拭えない。みんなと肩を組んでいるのにひとりぼっちな気がするのだ。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「普通じゃなくても大丈夫、それは素敵な個性だから」
誰かに好かれるために作り上げた「偽物の私」は「本当の私」ではないから、いくら愛されても虚しいのだ。「本当の私」を受け止められたときに初めて、寂しさは消える。全員に受け入れられようと必死になる必要はない。自分らしく突き進んでいれば、その唯一の魅力に気がついて近づいてきてくれる人がいる。だからどうか、個性を消そうとしないで。
理解されなくても大丈夫、私が感じたことは本物だから
私が辛いと感じたことを誰かに伝えたときに「考えすぎだよ」と言われると殻に閉じこもってしまいたくなる。「私がおかしいのかなぁ」とグルグル、グルグル、答えが見つからず自己嫌悪モードへ陥る。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「理解されなくても大丈夫、私が感じたことは本物だから」
誰がなんと言おうと、それがジョークだろうとその場のノリだろうと、私が辛かったのは事実。繊細だとか、過敏だとか、世界の標準も関係ない。私が感じたことは本物だ。私が抱える感情に誰かの許可はいらない。そして当事者は「私」であるから、他の誰かに無理やり理解してもらおうとすることも不要だ。自分にできることはただ「私の感情」としっかり向き合い、「確かに私はこう感じた」と受け入れるだけ。
裏切られても大丈夫、私は十分に愛情を注ぎきったから
大切な人が突然背を向けたときの絶望は、一生消えない傷として残るだろう。私の何が悪かったのか、あのときどうしていればこの悲惨な結末を回避できたのか、自分をたくさん責めたくなる。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「裏切られても大丈夫、私は十分に愛情を注ぎきったから」
もう遠くに行ってしまって見えないあの人を、私はずっと信じてきたし愛情を注いできた。できることは全てやり切った。そのうえであの人がどう生きるのかは私には操作できない。私は不幸ではないし、ましてやあの人が悪者というわけでもない。いや、私を傷つけたという罪はちょっとある。でもそのことを呪いのように思い続けるのは、楽しくないからやめた方がいい。私はよく愛しきったと褒めてあげて、あの人とは違う誰かにまた愛情を注げばいい。
生きているだけで大丈夫、それ以上必要なことは何もないから
生きることはどうしてこんなにも大変なんだろうかと日々悩む。人間関係も仕事も勉強もうまくいかない。誰にも認められず、何者にもなれず、不安で孤独で、何のために生きているのか分からない。何かに背中を蹴られながら無理やり生きている気がしてならない。そんなときにこの言葉をかけてあげたいと思う。
「生きているだけで大丈夫、それ以上必要なことは何もないから」
私たちは誰に何を言われたわけでもないのに「ちゃんと生きないと」と自分に重しを課せ過ぎているような気がする。使命や役割、生きる意味を持つことは私たちを奮い立たせてくれるが、それは必須ではないのだ。自分の欲に抗い何かを変えるために動きたいならそうすればいいし、流れるようにのんびりとその日暮らしがしたいならそうすればいい。誰に何を言われてもあなたの生きやすいように生きればいい。生きているだけで十分、喜ばれる命なのだから。
おわりに
自分に言い聞かせる言葉は、自分の生き方や在り方も指し示してくれるような気がする。悲しい時や苦しい時だけではなく、何か新しいことを始める時や状況や環境が大きく変化した時にも、自分の言葉を言い聞かせることで道を見失わずに進んでいけるだろう。
また、自分の考え方がいつも同じとは限らない。今の自分に合わなくなったと感じたら書き直して、成長と共に言い聞かせる言葉もアップデートしていきたいと思う。
書籍の紹介
最後に、今回の読書録「泣きたくなった時に自分に言い聞かせる言葉」を考えるきっかけをくれた書籍を紹介する。
- 書名:泣きたくなったあなたへ
- 著者名:松浦弥太郎
- 発行所:株式会社PHP研究所
優しくて温かい言葉の中に、著者の存在感や強い意志を文章から感じた。読み手の私と著者が実際に対話しているような、不思議な心地がする。心がキュッと苦しくなって誰かと語らいたい時にまたこの本に会いたいと思う。